昭和48年01月06日 朝の御理解



  御理解 題68節
 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その 辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓をあげても心に、真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを云うとうりに拝め。」

 真とか、真心を強調して有ります。同時に辛抱の心辛抱すると云う事。しかも辛抱の徳。勿論信心辛抱の徳であります。その信心辛抱の徳を、受けなければならない。それが、真であり、真心でなからなければならない。今日六十八節を頂きまして、どれほど頂いたか分からん程しの御理解です。「教祖金光大神御理解抄」というのをこの頃頂いておりますが、その御理解の中にですが、また教典以外のこれは御理解なんです。こう云うのが有ります。「今信心したから、今霊験が有るとは行かぬ。
 例えて見れば魚でも、味の良いものと云えば鰹節ですが、あれは今削って今味が出るとはゆかん。長らく煮ているうちには良い味が出ようが、信心もまあ十年してみい。その間には、有り難いと云う事がわかろうぞい。」と有ります。この六十八節の所もここだと思うですね。有り難いという有り難いと分からせてもらう処までが、信心辛抱なんですよ。有り難いと分かったら、もう止めれと云われても止められるもんじゃ有りゃしません。有り難いと分からんから、途中で挫折するのです。
 信心もまあ十年してみい。十年もしたら有り難いという事が分かろうぞいと、こうおっしゃっておられる。しかもその信心ガですだらだらっとした信心ではなくて、今日の御理解、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならぬ、と云うような十年でなからんやいけないと云う事。お互いの信心は、確かに有り難う成らせて頂く稽古、ですから何の道においても同じ辛抱が出来なければ、中途半端に終わりますけれども、まして信心は辛抱が必要である。
 三代金光様のお言葉の中にもございます「信心には辛抱する事が1番大切で御座います。」とおっしゃっておられる。もう簡単でこんなに素晴らしい言葉はないと思う。一番大切なことどんなにですね、素晴らしい信心をしておりましても、云うならば有りますよやっぱり、垢抜けたっと垢抜けんとが。だから垢抜けん信心で有ってもです、十年の信心が続いたらです、しかも雨が降るから、風が吹くからと、云う様な事にへこたれずに参りまして、有り難いと云う事が分かると云う処までの信心です。
 もう有り難いと云う事が分からせて頂いたら、信心はもうこっちのもんだと、その有り難いのが、段々大きく育って行くと云う事が所謂楽しみに成ってくるのですから。本当に10日か20日参ってから、確かにその信心ちゃありがたいですなという処は分かりますけれども、いわゆるその信心辛抱の徳と云うかね、その信心辛抱の徳から生まれてくる、有り難いと云うもんでなからなきゃ値打ちはない。
 何遍か参ったらとても有り難い話じゃった。有り難いと云うのはもう雨が降ったら、もう風が吹いたらもうしるしい事になるのです。勿論この雨風と云う事は、自分の思うように成らないとか、しるしいやらと云う事なんです。だからそこの処をやはり泣く泣くでも、辛抱して信心をしてゆくとこう云うのです。三代金光様が御年わずか十三歳でご神前奉仕をなさった。それから、それこそ人間技とも思われない七十年間という長い年月を御結界奉仕をしぬかれた。
 その金光様が信心には辛抱することが、一番大切でございます。ともう金光様をして、でなからなければ、いえない言葉のような感じがする。それはもう初めの間は、辛ろうて辛ろうてよう泣きました。それでも親様が座っておれば、楽じゃと仰せられたから、座っておりましたけれどもやっぱり辛ろうて辛ろうてよう泣いた。辛抱しておるうちに思うこともなくなり、素晴らしいですねぇ。欲しいものもなくなり、只有り難うとうて有り難うとうてとおっしゃってられます。
 只有り難うとうて有り難うとうてそのお礼の足りぬ、お詫びばかりを致しておりますもう最後には、お礼の足りない、お詫びばかりをです、される為に、あの御奉仕が出来られた。もうここに至るときにです、信心の極地ですですよ。いいですか欲しいものがなくなっておられるのですよ。第一思うことがなくなっておられる。という事は我情我欲もなくなってという事なんです。それで有り難うて有り難うてという、だからその有り難うて有り難うてというところ信心辛抱の徳です。
 だからもうこの位有り難くなったからと、仰っておられない。それでも生身の事でありますから、どこにお粗末ご無礼があるやらわからんという私は、お心もちがその有り難い有り難いで、おかげと仰りながらです、そのお礼の足りない、有り難いおかげのお礼の足りないお詫びをしておる。ちょいと有り難か、有り難か というとりゃよかごとあるでしょう。ここが最高のごたるけれども、それを又、お礼の足りないことを、お詫びをすると。昨夜の御祈念は幹三郎で当番でございました。
 やはり学院で色々な角度で信心の勉強をしとりますから、えらいこの話すことが、哲学的なんですね、それで合楽の現在の信心を勉強しておる。自分達の信心でこうキャッチした訳ですね。最近云われる五つの願い、合楽の信心は 余りに広くて深くて、何処をどう取って良いやら分からんと思うておったのに、ハツキリ五つの願と言うものが打ち出された。そこに信心の焦点が出来た。
 成る程人間の切実な願いで有るところのどうでも、健康でありたいと言う願い、家庭が円満で有りたいという願い、いよいよ子孫繁昌、家繁昌のおかげを頂きたい。これを願わせて貰う、そのかわり神さま修行させて貰うと云うことをハッキリその修行のことまでが、打ち出されておる。健康のおかげを頂きたいならばどうでも、ひとつ節制をしなければならない、大酒大食は、いけない。
 体に害するような、飲み方食べ方はいけない。そう言う事を致しませんと言う修行、それはもう願うからには、もう当然のことと分かった訳です。家庭の円満をもう、愈々願わせて貰う、為には人を責めない。これはちょっと難しかろうごたるけれども、それを本気でもう責めんぞと云う気持ちで、修行が端的に、教えられて有る。だから家庭円満の本当のおかげを頂くためのは、お互い責めると言う事を、金輪際止めるという修行をさせて貰う。もうこれで良いと云うことはない。
 限りなく家繁昌であり、子孫繁昌のおかげを頂く為に、成る程それは家業に忠実に成らなければならないどころじゃない。同時に仇おろそかな、云わば 物をお粗末にしたり、金を無駄使いをするような事が有っては成らない。事も願うからには、これは当然の修行だと。もう聞いた途端にその事をです、もう本当にこれは素晴らしい、合い楽の信心もうここを、取り組んで行きゃいいと、思って願って行った。
 ところが実際に取り組んで、その事を祈り願わせて頂いて、見たところが今度は四つ目願い、五つ目の願いと言う事になったら、今度はとても、今までの信心よりも深い難しいことが分かってきた。この三つの願いなら、本気でこれを頂きたいと、思う人ならんね、そう言う信心修行は、 誰でも出来ると云う事。何故ってお互いの願いの、心の底にみんな持っている願いばかりなのだから。だからそれで必ずおかげは、頂くだろう。けれどもそれでは、真の信心と云う事に成らないのだ。
 神の願いと私共の願いとが一致する所が出てこない云う事が分かってきた。私どもの願いだけは、成る程そう修行もするなら、成就するに違いない。商売も繁盛して来るして来るだろう。体も健康に成ってくるだろう。家庭も円満に成ってくるだろう。けれどもそれでは、神さまの願いと、私共の願いの所謂交流点がなくなる。只私共のいわば我情我欲の為に、修行しよると云う事になる。
 そこで後の二つの願いが、愈々なされなければね。所謂真の信心という事にはならないのだと、真実の御用が出来ますように、神の悲願神様の願いですね、御神願です神さまの御神願が成就する事の 為に、奉仕させて貰うと言うか、そう言うお役に立ちたいという願が出来ない。そこで色々考えた。それでねこの五つの願にはです、五つの願いを切実に、心の底から、願えれる為の、願いが又要りますと云う話を、昨日しておりました。この五つの願いを、只ダラダラと願うときゃよかと云う事じゃない。
 その五つの願いがです、本当に出来ることの為に、とりわけ後の四番目と五番目の願いと言うものがです、その三つの願いよりも、もっと切実に願えるような、おかげを頂く為に、そう言う願いが出来る事の為の願いをしなければならない。今日の信心辛抱もそうだと思うのです。信心辛抱さえしておけばと、雨が降っても風が吹いてもと教えておられますがです。そういう信心辛抱が出来ますようなね、願いと云うのがなされなければいけない。そう言う願いがなされる時に、神さまはそう言う働きを下さるのです。
 昨日、吉井の杉さんが、あぁして毎日日参なさいます。「親先生、今日まで丁度日参を始めて一年になります。」寒修行の初めの日だったそうです。そして勿論、一月の寒修行でまあ云うならば、日参はとても出来ないと思っていた。ところが何日目にかに参って来た時にある人がね、「杉さん、あんた三日坊主だから。」と言われた。それがまあ、悔しかったとも腹が立ったとも分からんけれども、です、ね、それで発憤した。
 もう親先生、本当にその、親先生がいつも云われるように、それは、悪口云われておるでも、その人が悪口言うとると思うたら、腹が立つけれども、神さまから言われとると思うたら、とおっしゃるが、もう私のこのことだけはもう、絶対神さまだったと、昨日言うて、一年間のお礼を言うておられます。杉さん、あんた三日坊主じゃからと、だから本当に自分な三日坊主じゃろうか、自分の力をいわば試すようなつもりでです、神さまにお願いをした。どうぞ続けられるだけ、続けさせて下さい、という願いをした。
 さぁところが先生、昨年一年の間にです、とても縋らなければ、参らなければおられないことが、ずうっと続いたと、願うと、そう言う働きが始まって来るのです。人間関係のこと、それはもう、金銭関係の事等はです。それこそ、吉井の財閥と、まぁ言われる程しの、大財産家なのですから、…けれども持っておるからの悩みが有るのですよ。これは不思議に、却って持たんもんの方が、良かとです。心配なか。  
 ところが有るが故にです。それは、もう大変な心配じゃった、だけではなかった、人間関係も、有った。もう昨日も言うておられましたがね、中には、ほんに血の涙の出るごたる事もございました。私もそれを知ってる。ほんなこつじゃつたのうと私が。それがです。本当に人から、三日坊主と言われてです、本当に自分の力と言うものを、試すような意味合いで、神さまにお願いをした。そしたら一年間続いた。
 先日も息子さん達が、今吉井に帰って来ています。それで息子達夫婦に私がもうしました事でございますと「私はもう手足の続く限りは、合楽参りは止めんからの。その事だけはあんた達も、ようと知っとってくれんの。又あんた達にもお願いするけん。あんた達も一つどうでんこうでん、参ってくれそしてお母さんは、お日参りだけは決して止めんからの。」と言う程しに成ってきた。もう信心辛抱の徳が身に付いていきよるです。もう愈々有り難うなってきよるです。
 私は今日の御理解は、そこんところだと思う。信心辛抱の所謂その幹三郎が言う、五つの願いと言うことが、愈々願うてみるとはあこれは見易い。ここに焦点さえ置いときゃええと、思うておった所がどっこい、願うてみると分からない事が一杯出てくるし、とりわけ二つの願いの難しさには、愈々考えざるを、得ないほど難しいことになって来た。大体これはこういう事が出来ることだろうかとさえ思う。人のことを祈るだけでも難しいのに、ましてや天地の親神さまの願い。
 神願成就の事の為に自分が、奉仕すると言ったような願い。真実の御用が出来ます事の為にという願い。ところが、事実そんなら、これはもう、私に言わせるとです。私もやはり願ったです。色々様々な信心させてもろうて、おかげがおかげになってこない。そこで段々分からせて頂いてきたことはです。親に孝行したいの、一念がです、もっと大きな親、大きな親と、大きな親への願いしかもそれは、どうぞ、その親の一番の忠義者に、おとり立て下さい。と言うのが、私の善導寺の親先生に対する願いでした。
 一番の忠義者にお取り立て下さい。ですから私の場合は、実にそこが切実でした。所謂お役に立ちたい立ちたいの、一念が愈々燃えてきた訳です。ですからそれを願って行けば出来る。だからその願いをさせて頂く処からです、その願いが本当の物に成ってくる事の為の働きが私の周囲にずうっと起きて来とる。杉さんじゃないけれども一年の間に、そう言う様な事になってきておられる。そして本当に寒中修行の時だけで止めるつもりじゃったけれどもそこに神の声を聞いた。それが普通で言うなら悪口で有る。
 あんたは、三日坊主だからと、こう言われた。そこで、本当に自分が三日坊主かと云う事を、試すごたる気持ちで、神さまにお縋りした。どうぞ続けられるだけ続けさせて下さいと。その中に、色んな問題が、起きて来た。しかも難しい問題ばかり、その難しい問題を、一つ一つ、お取り次ぎを頂いて、今日、このおかげを、頂いて来た。一年目にはです。もう、私の手足の続く限り、は私は、お日参りは、止めないからと、息子達夫婦に宣言された、というところ迄、おかげを、頂いた。
 神さまの願いも私はそこにあって、この六十八節と言う、御理解は有るのだと、こう思うです。今頼んだから、今思うように成ると言うことは、ない。けれども、たとえばそれは、魚の味を出すようなものだ。削ったから、そこで味が出ると云う事じゃない。それを、沸騰させて頂いておる中にです。いわゆる味わいが、出てくるように、信心の味わいもそこ迄行かなければ、駄目なんだ。おかげは頂く…。
 夕べは、壮年会でした、それで私、石井喜代司さんに、話した事でしたけれども、ああいう例えば、生き方の人、例えば、もう絶対腹はたてん、どげな事言われたっちゃ、あああれは人間だからと、思うたら腹は、立たんと言うのです。その事を、私、昨日の朝の御祈念に喜代司さんの事をしきりに願いよったんです。そしたら頂く事がね、竹トンボと言うのが有りましょう。子供の時に、子供が竹を削ってこう回しよる、それをね、一生懸命、パッとこう、回しよると、この辺迄スーツと上がるです。
 けれども、あれは竹とんぼを、本当に上げる為には、こうせにゃいかんです。上にあげにゃ、もちろんこうやって、ひねると同時に、こうやって上げるところに、一杯、上がるわけです。飛行する訳です。けれどもあの竹とんぼと言うのは、只、一生懸命回しただけでも二尺、三尺は上がるんです、金光様の信心の御教えを、たった一つでも良いから、本気で行ずる。文男先生どんが場合でもそうです。喜代司さんの場合なんかが、もうこの人達は、本気で行じておる訳です。
 ですから一生懸命その事に取り組んでおりますから、なるほど素晴らしいと言うか、現在あの程度のおかげは、頂いておるわけです。本当に素晴らしいタイミングが生まれてくると昨日言っております。けれどもそれは、今のていどの処だとこういうことです。今の合楽ではどういうものが、求められておるかと言うと、頼んででもとこう言うのですから人に、自分のおかげを頂く為には家内に頼んででも、子供に頼んででもこれを成就しなければならない。
 昨日私、内田さん達親子が朝の御祈念に参ってきた、椛目から参ってきた。だから椛目には、何軒も熱心な信者さんがおられます。それで中島さんあんた今日は椛目に、ずうっといっちょ頼んで回って下さい。今こうやって寒修行が始まっとるからと、回って下さい。と言うて私が頼みました。そしたら早速昨日は参って来とる。今日も宮崎さんがあそこへ、参って来とんなさる。恐らく頼まれなさったんじゃろうとこう思うです。
 昨日小野先生が参って見えた。いつもお日参りをされますけれども、もう御祈念の済んだ後に参って見える。だから私が頼んだ。だから小野先生兎に角そのずうっとと云う事は、いかんけんで目が覚めたときだけなっといつちょ、お願いしてから寒修行に参って来て下さい。と、言わんばかりに私が頼んだ。今朝からやっぱ参って来とんなさる。参ってきて貰わなければ、おかげの渡されない事があるから。昨日私は小野先生と、色々な対話の中に、素晴らしい事をお話したなと思うたことがあった。
 今度息子さんが大学に受験されます。それでお金を六百万も、八百万も積まにゃいかん、それでですね私は申しました。どうでんこうでんですね、学校に積むじゃなくてから、教会に積みなさい。八百万を特別に使わなければ、入られんと言うなら教会に積みなさい。八百万を。それはね、決してお供えじゃないよ。積むんじゃ神さまの前に そのかわりに、入学の、おかげが頂けたら、お供えしなさい。私はこれを言いながら、これはとっても素晴らしい事だ。
 例えば私が、金を必要としない。神さまもお金とおかげは付き物じゃないと、こうおっしゃる。けれどもねその一生懸命が、必ずおかげになると、私は思うたです。誰でもそうでしょう。この病気を治してもろうたら、ほんなこてもう家もいらん、屋敷もいらんちゅうごと思いよるです。実際にこの試験が出来さえすればもう、一千万位ならもうそれこそ、有り難う通してさえ貰うなら一千万位は、出したっちゃよかという親は、大学受験には、ばさらかおるです。
 ところがそんなら実際お願いして、受験が通ったとするとです、そうですなぁまぁ十万円位、初めはそげん思いよる、もうそれがしまいには一万円になってしまう。それが人間なんです。だからそう言う心では、おかげは受けられない。次の本当のおかげにならない。神さまがお供えが要ると言わっしゃる訳じゃないけれども、例えば本当にこの子が、入学のおかげさえ頂きゃ五百万、八百万位はもう本当に借ってからでん、出すという腹が有るのだから、それを学校に出さずに教会に積みなさいとこう言う。
 そのかわり出来じゃったら、返すもんだから。これは、入学の事だけじゃないです。皆さんがどうでも、これは、おかげを頂かねばならん、と言うときにはです。これがおかげを頂くなら、百万位の、お金なら出したっちゃええというごたる思いがする時には、百万円、教会に積みなさい。百万円の預金通帳と判もここへ持ってくりゃ、ええじゃないか。そうしたら私が預かっとく。
 そしてそれが成就せん時には、返すもんじゃから、そんかわり成就したならば、お供えしたならもう本当に、百万円の力を受けるだろうと私は思う。一生懸命。私はこの話をですね。大阪の有る大きな教会では、そうされるげなという。これはですね。積みじゃなくて本当にお供えさせられるそうです。学校に積むだけをお供えすると、そしておかげを頂かれると言う話を、あヽやっぱ大阪じゃあるなぁやっぱ商売人の町じゃけん、仲ゝやることが違うなと思ったけれども私はこれを聞いとらじゃったにしてもです。
 昨日はこれは自然と、小野先生に出た話です。お供えを神さまが必要と、言わっしゃる訳じゃないけれそも、そん時に腹を決めた腹が、そのまま真が表される事なんですから、これはもう、おかげを頂くだけではない。所謂真の徳と言うもの我です。百万円なら百万円の徳が、八百万なら八百万の徳が受けられると、私は思うのです。だからこれは、小野先生だけじゃない。皆んなにも機会があったら、これは聞いて貰おうと思いよったら、今日は期せずしてこんなお話ですから、聞いて頂いた訳ですけれどもね。
 人間というものはです、本当にそんな時には、そう思いよるけれども、しまいには百万が五十万で良かろう、そげん五十万こたいらん十万で良かろう。そして終いには一万円になってしもうとる。これが人間なんです。だからそう言うことでは、お徳が受けられないです。お徳を受ける人はそこを断行して行く人です。ですからそう言う例えば、勇気の出る信心とそう言う、勇気の出る信心を、させて下さいと言う、願いが要るという事です。五つの願いと言うことをですしてみたら難しい。
 そこで五つの願いが、本当に願いとして出きれるおかげを頂く為に、又その事を願がわなければ、ならないと言う事です。どうぞ、お日参りのおかげを頂きたいと思うならです、お日参りの出来るその事を、願わなければいけない。雨が降るから風が吹くから、雨が降ったり風が吹いたり、そこに自分に都合の悪い事になってくると、初一念と言うものをです、いわば百万が五十万になり、五十万が十万になり、と言う様な事になるのです。それでは信心辛抱の徳になりません。しかもそう言う信心がね。
 十年続いてみい所謂信心の本当の有り難いという味わいが出ると、今日教えておられる有り難いという味わいが出たらもう大丈夫なんだ。そう言う意味で例えば、杉さんの場合なんかそう言う信心が十年続けられたら、愈々確固たるものでしょうけれども、一年間お日参りを続けてみてです、所謂息子達夫婦に宣言出来る処まで、お母さんはもう合楽の信心だけは、止められんとよともう手足の続く限りは、御参りするからねと言えれる事なんです。それはたった一言あんた三日坊主だ、人から言われたそこから。
 所謂その事の願いがかけられた。願いに願いがかけられた訳です。そしたら願わなければおられん、縋らなければおられん。昨年一年もしお日参りでもしていなかったら、どう言う事になっとったじゃろうかと言う様な、一年で有ったというのです。お互い一つ最近言われる、五つの願いと言うもののです、その願いが所謂御祈念成就、御祈念成就の、おかげを頂かねばならん。どうぞ。その御祈念が成就すると言う事はです。お役に立ちたい立ちたいの一念と言うものが燃えてくる。
 その事が有り難いそう言う信心に成った時に、五つの願いの御祈念が成就したと言う事に成るのじゃないでしょうか。それには例えその事を一月願ったから十日願ったからと言うのではない。言うなら十年もその事が願い続けられて行く中には、愈々有り難いと言う味が出てくるようになる。それはもうすでに有り難いという所謂信心辛抱の身に徳を受ける修行をと言う事になる。折角そこの処の信心が頂けれる修行がさせて頂けれる事を、先ず願いにもう一つ願いをかけさせて貰うおかげを頂かねばいけんと思うですね。
   どうぞ。